湯野神社|亀嵩温泉の医薬の守護神
主祭神ミホツヒメの神社を線で結ぶと三角形になる事に興味を持って始まった、ミホツヒメトライアングルを探る旅。第3回目は奥出雲町の湯野神社に来ました。ミホツヒメの正体に迫れるのか!?
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実はこの神社、松本清張著「砂の器」の舞台となった場所だとか。立派な看板が立っています。
参道は非常に清々しい気持ちになる森林という感じですが・・・
階段を上がるとその森林は一層深くなり、木から気配を感じる様な少し陰の場所に出ます。陰陽入り混じって、パワーを感じます。
神社参拝に来ただけなのに、ちょっとした森林浴を体験してしまいました。陰から陽、陽から陰を繰り返して、少し非日常体験な感じがします。
湯野神社のご由緒
出雲風土記に記載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の守護神として創建された神社。社名は「中湯野、西湯野、湯野の小川」など亀嵩温泉に関する地名から湯野神社となったものである。
古来より湯沼神・湯野社・大森大明神・湯野社大森大明神・大森社・亀嵩大社・中湯野村社と呼ばれ、亀嵩の各部落にあった神社の総氏神であったとみられる。
社地は往古字「宮地」と称するところに出湯があって、その地に四間四方(約7.2m×7.2m)の壮大な宮殿があったのを、第5代執権 北条時頼の特命を以って、より大きな社殿を改建しようとして、約100m西の現社地に奉遷したのであるが、建立を果たさずしてついに仮宮が本社となって現在に至っている。
明治41年に春田神社・鹿島神社・星神社・久比須神社を合祀。
境内神社の玉作神社は玉峰山上に大杉一株を神木とし、百間四方(約180m×180m)の社地を有して、玉峰山から産出の水晶をもって玉を作った人々が祈願していた。明治42年に現地に遷座したという。
湯野神社の御祭神
配祀神
香々背男命・素戔嗚尊・大日霊貴命・武御雷命・國常立神・國狭槌尊・豊斟渟尊・大年神・御年神・若年神
温泉の神を祀ったのがはじまりだと考えると、オオナムチ・スクナヒコは合点がいきます。コトシロヌシ・ミホツヒメは美保神社の祭祀に倣ったと考える事もできます。しかし、なぜニニギ?という疑問が残ります。
ミホツヒメトライアングルの調査という目的で訪れた故、何か手がかりを求めて再度地図を見ると。。
揖夜神社の本殿横にそういえば!!ミホツヒメの摂社がありましたね!!
確か揖夜神社の一ツ石神幸祭は、美保神社の御祭神が揖屋神社の御祭神に逢いに来ていた事に由来するとか!そして、美保関の伝承ではコトシロヌシは揖屋に住むミシマミゾクイヒメのもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保にお帰りになったとされています。美保関~大根島~揖屋にミホツヒメが祀られている事はこの伝承との関連性を感じてしまいます。
ということは、ミホツヒメとはミシマミゾクイヒメのこと!?
さらに、ミホツヒメ信仰は静岡・京都・岡山・香川に伝播している事も分かりました。もちろんミホツヒメ=ミシマミゾクイヒメとなっている神社はありません。仮にミシマミゾクイヒメだとすると、この神の別名はタマヨリヒメで、記紀では神武天皇の母であり、夫はウガヤフキアエズとなっています。
先代旧事本紀ではトヨタマヒメはウガヤフキアエズの妻であり、ミシマミゾクイヒメはコトシロヌシの妻となっています。うーむ。思ったことを素直に書くと、日本の公式ストーリーを変えてしまいそうです。。
湯野神社の境内
御本殿
社殿は大社造で千木は男千木、ご神紋は二重亀甲に剣四葉唐花、方角は南東を向いています。
御神木と祠
石碑
なぜか剣の絵が描かれていました。ご由緒は不明です。
玉作神社
櫛明玉命・大己貴命・少彦名命
忌部氏、玉造部の祖であるクシアカルダマを祀っています。古くは玉峰山上に大杉一株を神木とし、百閒四方(180m四方)の社地を有していたそうです。玉峰山より産出した水晶を使って玉を作った人々の祈願社であったとのこと。
恵美須神社と祠
コトシロヌシ?
湯野神社へのアクセス
JR木次線 亀嵩駅から車で5分。駐車場はありませんが、神社前の道路脇に十分駐車可能なスペースがあります。
まとめ
ミホツヒメを主祭神とした神社を巡ってきましたが、僕が期待したトライアングルには深い意味を見出せず・・・都市伝説として語る夢が潰えてしまいました・・。しかし摂社にミホツヒメを祀る神社がまだ多くあり、島根・鳥取県外の神社を合わせて調べると特徴的な伝播をしている事も分かりました。新しい仮説「ミホツヒメ=ミシマミゾクイヒメ」を頼りに、旅を続けてみたいと思います。湯野神社はこんな都市伝説とは関係なく、素晴らしい神社でしたのでぜひご参拝ください。
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