神庭諏訪神社|タケミナカタが統治した神庭!?神社のルーツには高瀬山
荒神谷遺跡の北側に鎮座する諏訪神社。この辺りは神庭という地名で呼ばれ、神にささげるたくさんの銅剣が出土したことからも分かる通り、古くから神への祭祀を行っていた神聖な場所であることを暗示します。
そんな神聖な地には実に3社もの諏訪神社があり、古くからタケミナカタへの信仰が篤いのです。
神庭諏訪神社のご祭神
建御名方命
八坂豆賣命
記紀によるとオオクニヌシの息子であるタケミナカタ。そして諏訪大社にも祀られているタケミナカタの妻、ヤサカトメを祀っています。国譲りに反対したタケミナカタは、諏訪の国まで逃げ、出雲には帰ってこない事を約束したはず。それがなぜこの地に祀られているのか?特にこの辺りには諏訪信仰が篤く、探求意欲を駆り立てます。タケミナカタは記紀には記載されているのに、出雲風土記には全く登場しないという不思議もありますが、この神庭諏訪神社には貴重な一説が残っています!
神庭諏訪神社のご由緒
神社のご由緒記にはこのようにあります。
命若年の時、父(オオクニヌシ)に従い南方の大国山に上り下方の学頭、神庭、荘原、伊志見の地を統括し賜り。これすなわち後に氏社諏訪神社として奉体する根源なり。高瀬城主、米原平内兵衛(米原平内左衛門綱広)が住民繁栄、五穀成就祈願の為、神庭に諏訪神社を建立。時の大工多久和官兵衛(文禄元年、西暦1592年)
出雲に帰ってこれなかったタケミナカタを出雲に勧請したのは戦国時代の高瀬城主 米原綱広であったという事か!?
彼はもともと尼子の武将でしたが、1560年に尼子晴久が急死したのち、月山富田城攻めには毛利方に付いています。しかし山中幸盛(通称 鹿之助)が尼子勝久を奉じて再度決起すると、綱広の息子 綱寛は再び尼子軍に組し、激しく戦いました。最後には毛利郡を防ぎきれず、高瀬城は吉川元春に開け渡したそうです。
しかし、神社のご由緒をよく読むと、タケミナカタが幼少のころ、父に従い大国山(大黒山)に上り、眼下に見える地域を統治していたとある。古事記・日本書紀によってタケミナカタは出雲に帰ってこれないと定義づけられたが、幼少のころはこの地域を統治しており、米原平内左衛門綱広は氏神を立派に祀る為に神社を建立したに過ぎないのです!つまり連れて帰ったのではなく、地元の神を丁重に祀ったという事なのです!
神庭諏訪神社から南側に、高瀬山を望む。
高瀬城が築城されたのは14世紀の南北朝時代。初めて米原姓を名のった米原治綱の息子、米原平内左衛門綱広が初代城主となったそうです。この城は天然の要害で立地が良く、頂上には清水が沸き、神代神社祭神のウヤツベノミコトが「高清水」と仰った事に由来し、高清水を高瀬と呼ぶようになっていったとのこと。
神庭諏訪神社の最初の鎮座地は、この高瀬山麓にある「神庭諏訪神社元宮」の地であったと伝えられています。1592年の事です。その後、1770年頃の江戸時代に現在の地に遷座されたのです。その後、1836年に新川の掘削が完成すると、御分霊を佐支多神社にも移したのでしょう。
元宮は現在このような状態で、だれも参拝する姿を見かけません。この元宮は別記事に特集したいと思います。
神庭諏訪神社の境内
御本殿
社殿は大社造、千木は男千木、御神紋は二重亀甲に違え鷹、方角は東を向いています。見つめる先には、学頭諏訪神社!
やる気神社
ご祭神 伊弉諾命
天狗岩
ご祭神 天狗岩大神(猿田彦命)
総荒神祭
夫婦椿
神庭諏訪神社へのアクセス
JR山陰本線 荘原駅から車で5分。駐車場も豊富にあります。
諏訪大社との関係性
新川の南側には高瀬山にルーツを持つ神庭諏訪神社、その北側には御射山と佐支多神社。新川あるいは斐伊川の北側、つまり神庭から北西の方角には鳥屋神社と御名方神社。これらは諏訪大社の上社・下社の位置関係に似ています。気のせい!?
諏訪大社は諏訪湖を挟んで南側に山を御神体とする上社の本宮・前宮があり、北側に木を御神体とする下社の春宮・秋宮があります。出雲郡の諏訪神社に当てはめると、御名方神社が下社春宮、鳥屋神社が下社秋宮、神庭諏訪神社が上社本宮、学頭諏訪神社が上社前宮という事になるのでしょうか。この説が正しいのかどうか、検証していきたいと思います。
まとめ
一見すると武将が建てた神社という事で、武の神様を勧請したと思いがちだが、地元の氏神を立派に祀ったことにルーツを持つ。高瀬山から大黒山あたりはタケミナカタが統治していたという事でしょうか。この神庭学頭の諏訪と、鳥屋の諏訪を合わせた諏訪大社説が正しいのかどうか、文献を読み込んでいきたいと思います。乞うご期待!?
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