止屋の渕|イズモタケルの正体とは!?斐伊川での決闘は誰と誰が行ったのか
出雲市大津町にある止屋の渕伝承地。ここには出雲風土記、日本書紀にその記述が見えます。
そしてここは出雲国造の祖先が斬り合った場所として語り継がれているのですが、そこにはあの伝説の英雄「ヤマトタケル」の影もちらついているのです。
日本書紀に見える止屋の渕
日本書紀によると第10代崇神天皇の時代、
「出雲大社には高天原から下った神宝が保管されているはずだ。それが見てみたい。」
と天皇が仰るので、使者が派遣されました。
日本書紀によるとこの神宝とは、天穂日命の息子、天夷鳥が高天原から持ってきたとしています。
当時出雲大社の祭祀を務めていたのは、天穂日命の子孫、第11代出雲国造の出雲振根でした。
しかし彼は留守をしており、弟の飯入根が応対し、独断で神宝を天皇に献上してしまいます。
帰ってきた振根は激怒しました。数年経っても怒りが収まらなかった振根は、弟を誘い出しました。
フルネ「最近ヤムヤの渕にアサザが生い茂っているらしいぞ。一緒に見に行こうじゃないか。」
イリネ「いいね!いこう!」
そして止屋の渕に到着した二人。
フルネ「一緒に水浴びをしようぜ!」
イリネ「わーい!」
ひとしきり楽しんだ2人だが、フルネは隙を見て陸に上がった。そしてイリネの剣を手に取ると、
フルネ「今度は剣で勝負しようじゃないか」
イリネ「え!?えぇ!?」
フルネはスラリと剣を抜くと弟に斬りかかります。それに応じようと、とっさにフルネの剣を手に取り、抜こうとしましたが・・・
それは兄が用意した本物そっくりの木刀だったのです。剣を抜こうとした姿勢のまま、イリネは斬り殺されてしまいました。。
その情景を時の人はこう詠んだという
八雲立つ 出雲梟帥が 佩ける大刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ
-意訳-
イズモタケルが身に着けていた太刀は葛をたくさん巻いてあったが、中身が無くて気の毒だ
そして、その事件は朝廷に伝わり、結局はフルネも処刑されてしまいます。その後しばらく出雲大社のお祀り事は止まってしまいました。。。
すると異変が起こります。
丹波の国に住んでいる幼子が奇妙な歌を歌っているというのです。その内容はとても子供の言葉とは思えない、神がかったものでした。
この時に子供が歌っていた内容には、「出雲の人が祀っていた鏡~」という言葉が含まれており、この噂を聞きつけた天皇は鏡をお祀りするようになったのだされています。
日本書紀の「止屋の渕」に見える謎
1.出雲の神宝とは鏡だった?
出雲大社の御神座にある、いわゆる御神体というものは今でも謎なのですが、少なくともフルネの時代には鏡だったのかもしれません。
2.イズモタケルとはイリネのことだった?
イズモタケルといえば古事記において、ヤマトタケルが滅ぼした武将のこと。実はこのフルネ&イリネの伝承は、ヤマトタケル&イズモタケルの伝承とかなり似ているのです。
古事記に見える止屋の渕
第12代 景行天皇の御代。
父の命により、熊襲を平定したヤマトタケル。さらに父に喜んでもらおうと、命令には無いが出雲に立ち寄ったのでした。
同じ武を志す者として無邪気に近寄ってきたヤマトタケルに、すっかり心を許したイズモタケル。ここでおもむろにヤマトタケルが提案します。
ヤマトタケル「肥川で水浴びしようぜ!」
イズモタケル「いいね!」
ヤマトタケルは密かにイチイの木で木刀を作って、身に着けていました。
水浴びから先に上がったヤマトタケルは、イズモタケルの剣を手に取ると言いました。
ヤマトタケル「お互いの剣を交換して、剣術の勝負をしないか!?」
イズモタケル「面白い。やってやろうじゃないか!」
やはり剣を抜くことができず、イズモタケルは敗れ去るのでした。。。
そしてヤマトタケルは歌を詠みました。
やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛多纏き さ身無しにあはれ
「やつめさす」も「やくもたつ」も出雲にかかる枕詞ですが、この微妙に言い回しが違うあたり気になりますね。また、崇神天皇の御代として描いている日本書紀、景行天皇の御代として描いている古事記。時代の違いがあるのも興味深いです。
止屋の渕の祠
止屋の渕と書かれた看板の奥へ上がっていくと、そこには小さな祠がありました。
二つ並んだ祠は何を意味するのか。
もしかしてヤマトタケルとイズモタケル?それともフルネとイリネ?
いえいえ、出雲によくあるサイノカミかな?
その答えはどこにもありませんでした。
出雲風土記に登場するヤムヤという場所は、塩冶社、つまり現在の塩冶神社のあたりを指すと考えられます。ヤムヤの渕伝承地は塩冶神社からだいぶ東に行った、斐伊川沿いのエリア。止屋の渕伝承地は、現在の住所では出雲市大津町となっています。
塩冶神社にはアジスキタカヒコの息子、エンヤビコを祀っていますし、塩冶町自体もアジスキを祀る阿利神社があります。ヤムヤの地とはアジスキ、後の加茂一族につながっていく風土を感じます。
記紀や風土記の時代のヤムヤの地とは、大津~塩冶までを含む広域なエリアだったのかもしれませんね。
止屋の渕へのアクセス
一畑電鉄の大津駅から車で約7分。駐車場などはありませんので、路上駐車になります。付近は車通りも少ないので停めやすいですが、近隣の住宅にご迷惑とならないように配慮ください。
まとめ
出雲国造の御先祖、イズモノフルネとイイイリネにまつわる伝承を残す、止屋の渕。そこにはヤマトタケル&イズモタケルとの酷似性や、広大な土地を治めたアジスキ勢力の影も見え隠れします。本当に斬りあったのは誰と、誰だったのでしょうか?
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