津上神社|津和野藩のために帰郷した家老とセオリツヒメ
松江市島根町に鎮座する津上神社。その名の通り水辺の高台にあるわけですが、この神社が面した日本海側の海岸線には古来より四十二浦と謳われた巡礼地があるのです。津上神社は沖泊浦と呼ばれたスポットでした。
~四十二浦巡りとは!?~
島根半島・宍道湖中海(国引き)ジオパーク推進協議会
島根半島には、西側の出雲大社から東側の三保神社までの沿岸に点在する四十二の浦々を巡る信仰習俗があります。浦々では海水を少量ずつ汲み、神社を参拝しながら巡り、江戸時代末期には一畑薬師に汐水を奉納し、満願青成就を祈願するというものでした。
これが、「四十二浦巡り」あるいは「四十二浦の汐汲み」と呼ばれています。
一畑薬師信仰とも結びつくもので、いつ頃から始まったかは知れず、江戸時代の終わりにはかなり広まっていたようです。青い海と空、幾重にも入り組んだ海岸線、東西65キロに及ぶ島根半島は、島根半島・宍道湖中海ジオパークに認定されていますが、言葉を絶する大自然の美しさがあります。
四国のお遍路さんと同じような風習が島根にもあったんですね。最近ではこの四十二浦巡りを復興させようという動きが見られます。地域の活性化につながればいいですね。四十二浦の公式サイトはこちら。
津上神社のご由緒
社殿後方の土地は江戸時代、元禄年間に津和野藩に家老として仕えた多胡外記左衛門之丞の土地であったという。津和野藩の危機を救済するため、お金の工面のために一時帰郷した多胡は、海路を進む中、石見国三隅の八幡宮に立ち寄り、旅の安全を祈願して御分霊を共に船に乗せ、この地にお連れし祀ったといわれています。
浜田市三隅町字矢原(言い伝えでは竹原)の八幡宮の祭神にも、津上神社の御祭神と同じセオリツヒメが含まれており、信憑性がある。
江戸時代の津和野藩といえば、因幡鹿野藩(鳥取)から亀井家が入封し、初期の家老は多胡氏が務めました。多胡氏は紙の事業、石州和紙を政策的に行い財政を潤わせました。しかし、財政難に陥った。この理由は色々な情報が出ているが、新田開発が凶作により財政難になったとか、藩主が過失を犯し幕府から罰金を科されたとか。いずれにしても家老の多胡氏はお金の工面に走ったようです。
また、近くにある潮掻穴は近親者が亡くなって四十九日の忌明けに、ここで潮掻きするという風習があったそうです。その昔、松江市長海町辺りで生まれ育った武蔵坊弁慶が眼病のを患った際、四十二浦巡りをして、最後にこの洞窟で潮汲みをして、平癒したと伝わっています。
津上神社の御祭神
瀬織津彦神
セオリツヒメは大祓祝詞に登場する祓戸の神様。つまりお祓いの際に召喚される四柱の神のうちの一柱。川の瀬にいて穢れを海へと流すお役目を持っておられます。
セオリツヒコという神様は古事記や風土記、祝詞の中にも見えない神。お名前的にはセオリツヒメと御兄弟かご夫婦のようにお見受けしますが、真偽のほどは分かりません。
実は津上神社という名前は西側の鹿島町手結にもあり、見つけることはできませんでしたが十六島町船津にもあるそうです。鹿島町手結の津上神社にはハヤアキツヒメが祀られています。
祓戸大神といえば、川にいるセオリツヒメから海にいるハヤアキツヒメへと穢れが引き渡され、風の神イブキドヌシが黄泉の国にいるハヤサスラヒメへと引き渡し、最後には穢れは消えていくとされます。津上神社の御祭神からインスピレーションを感じ、風の神の配置を見たところ、これは横一直線に伸びています。風の神の配置は日本海側を巡る「四十二浦巡礼」のルートからは外れています。
深読みすると揖屋神社(黄泉平坂)、つまり黄泉の国へのルート沿いに風の神が鎮座していると考えられてオモシロイ。でも実は宍道湖や中海などが今よりももっと大きく、内海だった時代を考えると、船の運航を助ける風の神を海岸線に祀っていたとしても不思議ではありません。
布宇神社のご由緒には「オオクニヌシが越の国へ出かけて行った」と伝えられていますので、この風の神ラインで船を出したのかもしれませんね。
津上神社の境内
御本殿
社殿は春日造、千木は男千木、御神紋は梅花?桜?のような形に見えます。方角は西を向いています。
恵比須神社
事代主神
津上神社へのアクセス
島根町にはJRが通っていません。松江駅からバスで目指すことも可能ですが、現地での便利さを考えるとマイカーかレンタカーで目指すことを強くお勧めします。だんだん道路川津ICを降りてから約26分です。津上神社には駐車場がありません。
港の方へ降りて行ってしまうと行き止まりでUターンも大変になってしまいます。この高台の道路わきにエスケープゾーンがあり、車を停めておけます。停めていいかどうかは保証できませんが・・・
車を停めて、このポイントから左手に歩いていくと・・・
ちゃんと整備された参道が続きます。
時々不安になる道。
さらに不安を煽る道。しかし、ちゃんと石で舗装されています。信じて歩いていきましょう。
最後にはちゃんとたどり着けますよ。
まとめ
かつては武蔵坊弁慶も訪れたという、四十二浦のひとつ沖泊浦。そこには藩主のために帰郷した多胡氏が、旅路で命を預けたセオリツヒメが鎮座していました。しかし、周りの神社を見渡すと祓戸大神のストーリーをあてはめたくなるような、興味深いスポットがたくさん。ぜひ自動車で四十二浦を巡ってみてくださいね。
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