沖洲天満宮|菅原道真公が立ち寄ったお社に起きた奇跡
出雲市立斐川東中学校の隣に鎮座する沖洲天満宮。名前が示す通り天神(菅原道真公)を祀るのが天満宮なのですが、ここにお祀りされることになった経緯は、まさに流れ流れて漂流の歴史なのでした。
また、沖洲という地名も「海の沖合の方」という意味で、西隣りの地区を中州と呼ぶことから、この辺りが水の中、つまり宍道湖であった時代からの歴史を持つことが分かります。それでは詳しくご紹介していきますね。
沖洲天満宮のご由緒
洪水で流れついた祠
養老年中(717-723)、つまり奈良時代に洪水があり、直江の結地区にある土師原から祠が押し流された。土師原には土師部の先祖である野見宿禰をお祀りしていたが、北方へ押し流され宍道湖の沖の島に生えた松に引っかかった。
土地の人々は「これは土師原の社であるから、結の里へ送り返さねばならぬ」と言って結の里へ告げ謀っていたところ、神のお告げがあり、これは神の意志で流れてきたもので、そのままお祀りして欲しいという事になり土師原の名をとって土師神社と名付けた。
菅原道真公との縁
洪水の一件以来、結の里の土師原にはお社がなく、古跡のしるしに松を植え、代々伝えて来た。
時は下り平安時代、菅原道真公が大宰府へ左遷となった折、筑紫街道を西行きの途でお休みになった。天神ゆかりの地として天神原と称し、天神松と呼ぶようになった。しかしこの松も昭和三十年代に落雷によって枯れ、倒壊した。今は何も残らず、只語り草だけとなった。
道真公の憑依と御神体の奇跡
康治元年(1142年)、沖洲土師神社の神主足立信輝のとき、召使の女が突然狂い話しだした。
「吾に天神様の霊が移らせられた。天神様はこう仰っている。吾此処を通ったところ炎天耐えがたく、沖の小島が見えたので立ち寄ったところ小さい社があり額に土師神社とある。これは吾が遠い祖先にあたるので尊く思って、社のかたわらにある松に腰をかけて四方を眺めると景色は美しく湖水の上には帆掛け舟が通行し大変吾が心が安らぎ満足したからここに鎮まろう。そのしるしに自らの木像を置くから神体として祀るように。」
そこで宮の御戸を開けてみるとお告げ通りの尊像があったので翌年八月五日、野見宿禰と御相殿に斎き祀った。現在の社の西にある逆枝の松はこの腰掛松ということである。
左遷ルートの謎と御由緒の矛盾
以上にまとめたご由緒は昭和53年(23代宮司)に発行された「沖洲天満宮略誌」に記載された内容であるが、現在の沖洲天満宮の境内に設置されているご由緒記とは矛盾する点がある。境内に掲げられたご由緒によると、菅原道真公が大宰府へ向かう道中で立ち寄られ、土師神社の額を見て感動し、自らの木像を納められたとある。これでは召使の女に憑依した話が完全に嘘になってしまう・・・
また、大宰府を目指された菅原道真公がなぜわざわざ日本海側ルートを選んだのかというと、実は出雲には野見宿祢のお墓と、菅原道真公の御生誕の地があるのです。
沖洲天満宮の境内
御本殿
野見宿祢命
菅原道真公
社殿は流造、千木などはなく、御神紋は梅鉢紋。方角は南を向いています。
戦国時代に名をはせた尼子の武将。高瀬城主米原氏も先勝祈願に訪れたとか。社殿は真っすぐ高瀬城のある高瀬山を向いています。
現存する鳥居は三の鳥居で、一の鳥居は高瀬山麓の学頭土居に、二の鳥居は庄原にあったが江戸時代に新川掘削により撤去されたとあります。
吉備津神社
武彦命
松守護神社
素戔嗚尊
御神木
荒神
社日碑
沖洲天満宮へのアクセス
JR山陰本線 荘原駅から車で約 5分。広めの駐車場があります。隣が中学校となっていますので、出入りには十分ご注意ください。
まとめ
直江から流れてきた野見宿祢の祠。その後、菅原道真公が訪ねて来られ天満宮となった。大宰府を目指された菅原道真公がなぜわざわざ日本海側ルートを選んだのかというと、実は出雲には野見宿祢のお墓と、菅原道真公の御生誕の地があるからなのです。道真公はご先祖のお墓参りをし、そのまま宍道湖や日本海を見ながら九州を目指されたのでしょうか。ご逝去の後も、この沖洲に鎮まると決められ、無事里帰りを果たされたと考えると何とも言えない想いがこみ上げます。
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