美保神社|国譲り神話のもう一つの舞台 事代主の妻の謎
島根半島の西端に出雲大社、東端に位置するのはここ美保神社です。ここにはオオクニヌシの息子が祀られており、まさしく国譲り神話の舞台であります。
美保神社のご由緒
御祭神の事代主は天照大神の弟 須佐之男命の御孫であり、大国主命の第一子とされています。天孫降臨に先立ち、武御雷神より出雲の国を天照大神に差し出すよう求められると、大国主命はその決断を事代主に託します。
この大事な知らせが届いたとき、事代主神はたまたまこの美保碕で魚釣りをしていらっしゃったが、「この国は天つ神に奉り給え」とお答えになり、天逆手を柏ってお籠もりになり、大国主神はその言葉通り国を譲ったのでした。
そして事代主神は多くの神々を従わせ、天孫を奉護し建国に貢献されました。初代神武天皇・第二代 綏靖天皇・第三代 安寧天皇の皇后陛下は事代主の御子孫の姫神で、天皇家の外戚第一の神にあらせられます。
また、この美保碕は大国主神が国造りに行き詰まり困っていた時に、高皇産霊神の使いである少彦名神と出会った場所でもあります。
美保碕は地理的にも海洋の関所であり、北は隠岐、竹島を経て朝鮮に至り、東は「地の御前・沖の御前」を経て北陸に至り、西は日本海航路によって九州に至り、南はくにびき神話ゆかりの弓ヶ浜・大山に接しています。こうしたことから古来より政治文化の中心であったと考えられます。社殿は少なくとも奈良時代からはその存在が見られ、南北朝時代の延喜式には後醍醐天皇が祈願に訪れたとされます。
神仏習合により御祭神の事代主神は「えびす様」として親しまれ、出雲大社の大国主神は「だいこく様」とされたことから、出雲大社と美保神社を縁結びの両参りとして観光的に推されています。
美保神社の御祭神
拝殿はパルテノン神殿のような開放感のある大型の建築様式、本殿は右殿と左殿の2つが装束の間と呼ばれる回廊でつながった特殊な形となっている。
右殿(大御前)
三穂津姫命
左殿(二御前)
事代主神
装束の間
大后社:神屋楯比売命、沼河比売命
姫子社:媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命
神使社:稲背脛
ミホツヒメとは日本書紀によると、オオクニヌシの后神とある。出雲の国譲りの後、天津神タカミムスビの娘と結婚することになったオオクニヌシ。対岸にある唐王神社には正妻であるスセリヒメとは別居し、ミホツヒメと暮らしたオオクニヌシの神話が残っています。
古事記によると事代主神はオオクニヌシの御子であり、国譲り神話の際にお籠もりになったはずですが、日本書紀と合わせ読むと三輪山の大物主神と同神とみなされたり、娘のタタライソスズヒメは初代天皇の神武と結婚したりと話題に尽きない。
大后社には古事記で読み解くところの「オオクニヌシの后」が祀られている。同じく古事記で読み解くなら、カムヤタテヒメはコトシロヌシの母、ヌナカワヒメは叔母ということになるが大后とは!?
イナセハギは別名をアメノトリフネと呼び、アメノホヒの御子にして国譲りの知らせをコトシロヌシに伝えに来た神です。
美保神社の境内
御本殿
社殿は美保造または比翼大社造と呼ばれ、出雲大社が2つくっついたような形をしています。左殿は女千木で神紋は二重亀甲に渦雲、右殿は男千木で神紋は二重亀甲に左三つ巴。方角は東を向いています。
宮御前社・宮荒神社・船霊社・稲荷社
宮御前社:植山姫命
宮荒神社:奥津比売命・土之御祖神・奥津彦神
船霊社:天鳥船神
稲荷社:倉稲魂命
御霊石
若宮社・今宮社・秘社
若宮社:天日方奇日方命
今宮社:正清霊(太田正清?)
秘社:御祭神不明
アメノヒカタクシヒカタは先代旧事本紀によればコトシロヌシの息子。母は玉依姫(ミシマミゾクイヒメ)とされ、2人の間には葛城の鴨王となったクシヒカタのほかに、神武天皇の妻となったタタライソスズヒメ、第二代 綏靖天皇の妻となったイスズヨリヒメがいます。
正清とはコトシロヌシの子孫である太田正清と見えます。この方は祖先を忘れまいと青柴垣神事を創めたとされます。秘社については何も分かりませんでした。
すぐ隣には池がありました。このお社周辺には何とも言えない強い氣を感じます。秘社に祀られている神様が関係しているのでしょうか?
本殿裏の小川にはカエルが大合唱。
美保神社にまつわる神話
国譲り神話
アマテラスの使者として登場した武神タケミカヅチは、稲佐の浜でオオクニヌシに出雲の国を譲るように告げました。オオクニヌシはすぐに答えず、美保にいる息子が答えると告げた。
タケミカヅチと同行していたアメノトリフネはすぐさま美保に船を出した。美保に着くとオオクニヌシの息子コトシロヌシは釣りをしているところだったが、アマテラスの勅命を聞くと覚悟を決めた。「この国は献上すべきである」とお答えになり、海中に青柴垣を造ると、天逆手を打ってその身を御隠しになられました。
えびす様の鶏嫌い
コトシロヌシは、中海を渡り美保の対岸にある東出雲町揖屋の三嶋溝杭姫命のもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保の社にお帰りになっていました。ところがある夜、一番鶏が時刻を間違えて、まだ夜も明けないうちに刻の声をあげてしまいました。
急いで帰路についたところ、あわてられたせいか途中で船を漕ぐための櫂を海中に落とされ、仕方なく足で掻いている時に、その足をワニ(サメ)に噛まれケガをしてしまいます。
やっとの思いで美保に帰り着いたコトシロヌシの耳に、今度は正確な刻をつげる鶏の声が聞こえました。怒ったコトシロヌシはそれ以来ニワトリを忌むべきものとし、以後、美保・揖屋の人は鶏肉、鶏卵を食べず、鶏を飼うこともご法度としました。えびす様の絵がいつも片足を曲げていらっしゃるのは、この時の傷のせいです。
美保神社の特殊神事
青柴垣神事
国譲り神話でコトシロヌシがその身を御隠しになったことに由来します。旧暦3月3日に行われていましたが、現代では4月7日に行われます。
當屋に任命された氏子さんはこのお祀りが終わるまで瞑想を解いてはならぬという不思議なルールで始まり、たくさんの船が出され、船上での秘儀が執り行われます。港側では猿田彦と鈿女が決められた場所にてお迎えに出向き、船にて供えられたお供え物は実に157種にもなるそうです。
一連の祀りごとが終わると、當屋はやっと瞑想の禁を解かれ、おみくじによって次の新しい當屋が決定されます。そして日の丸扇と刀を持って舞をなし、引き分け相撲で終わるのです。なんとも不思議なお祀りです。
神迎神事
出雲大社の神迎えとは違い、5月5日に行われる神事。美保関灯台から見える沖の御前島に船を出し、神霊を本殿内の大后社・姫子社までお迎えする神事。神霊をお迎えするためには暗闇でなければならないため、港の家々では明かりを消して待つのだそうです。
沖の御前島は約1200万年前に隆起してできた面積わずか0.26haの小島。『出雲国風土記』には「等々島(とどしま)」と記されています。その昔、ご祭神である事代主神が魚釣りをされたところといわれ、現在でも海底からは神楽の音が聞こえるといわれます。美保神社の飛地境内地で、禁足地となっています。
美保神社 公式サイトより
女神を迎えに行く神事で、大后社までお送りするということは、迎えられる神はカムヤタテヒメかヌナカワヒメという感じがします。鶏嫌いの神話にあるように、コトシロヌシは暗いうちに船で出かけ、夜這いに行く習慣があったようで、これは昔の風習として「妻問い婚」があったことを示していると思いますが、揖屋神社のあたりにいたのはミシマミゾクイヒメでしたね。では沖の御前で逢っていたのは誰?カムヤタテヒメもヌナカワヒメも古事記ではオオクニヌシの妻です。。
諸手船神事
諸手船神事とは旧暦11月の初牛の日に行われた神事で、現代では12月3日の13時半から行われています。国譲り神話において、アメノトリフネがコトシロヌシの元を訪ねる時に、熊野諸手船で参上したことに由来します。
美保神社へのアクセス
美保関無料観光駐車場から徒歩2分。美保関自体には松江駅から車で45分かかるため、次への移動を考えなくて済むように美保関に宿泊するか近くの皆生温泉あたりに宿を取っておくと安心です。
まとめ
コトシロヌシを祀る美保神社の本殿には、記紀で読み解くところのご家族神とは一致しませんでした。コトシロヌシは一体どんな女神と逢い、どのように暮らしていたのでしょうか。開放的な拝殿の裏には出雲大社が2つ連なったような特殊な御本殿。まだまだ調べてみたいネタがたくさん見つかったのでした。
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