【北島国造館】出雲教とは何?出雲大社とはどう違うのかを解説します!
出雲大社の東側にある出雲教と書かれた施設。
一見すると神社のようで、そうでも無いような・・・
初めてお越しになる方はその意味が分からず、混乱されるかもしれませんね。今回はそんな出雲教について解説いたします。知ればきっと行ってみたくなりますよ。
北島国造館(出雲教)とは!?
いわゆる神社ではありません
北島家が運営する宗教施設です。仏教と神道は結びつきが強くなり過ぎて、財力にしても影響力にしても、どんどん強くなっていった時代がありました。布教活動や教えに関しても地域によっても神社によってもばらばらでした。
明治政府はこうした神社の在り方を統一させ、管理しようとしました。たくさんあった神社を合併させて数を減らし、神社と寺を分離させ、統制管理しようとしました。
この動きによって神社の運営資金は激減し、非常に困ったことになったのです。そんな時に出雲大社の宮司さんは独自の動きを見せます。
自分たちで神社の布教活動を始めたのです!これが教派神道の始まりです!
この時に宮司職だった北島さんは出雲教を立ち上げ、全国に布教活動を行ったのでした。他にも大本教や天理教など、全国では様々な教派神道が立ち上がったのです。
千家さんと北島さん
出雲大社の神職は他の神社とは少し違っています。
一子相伝であるはずの宮司さんが2つのお家に分かれています。現在は大宮司を千家さんが、少宮司を北島さんが担当していらっしゃいます。それはなぜなのでしょう?
国譲り神話
天照大御神の使者が、大国主命に国譲りを迫った国譲り神話において、最初に派遣されたのは天穂日命(あめのほひ)という神様です。
しかし天穂日命は大国主命に惚れ込んでしまい、天照大御神の元には帰りませんでした。以来ずっと、天穂日命は大国主命の元で働くようになりました。
この天穂日命こそ現在の出雲大社の宮司さんの祖先神なのです!特に出雲大社の宮司さんは奈良時代に出雲の政治も担当する国造という職に就いておられました。
そんな理由もあって、出雲大社の宮司さんの事を出雲国造(いずもこくぞう)と呼ぶこともあるのです。
出雲国造の分裂
出雲国造は南北朝時代まで一子相伝でした。しかし第55代の国造は病弱であり、弟に代を譲るとか、譲らないとかで揉め事になってしまいます。
それ以来、国造は千家と北島の二家に分裂し、以来どちらも出雲大社の宮司職である出雲国造を名乗ってきました。現代の神社庁管轄下の宗教法人出雲大社の宮司は千家さんが担っておられます。
ちなみに今は特に仲が悪いとかいうことではないですよ!
教派神道が生まれた時代、千家さんは出雲大社教を、北島さんは出雲教を設立し布教してこられました。
北島国造館の境内摂社
良く整えられた芝生を中心に、景観の良い摂社がたくさん!フォトスポットとしても楽しめます!
天神社(てんしんしゃ)
少名毘古那神(すくなひこなのかみ)
スクナヒコとは大国主命の国造りをお助けになった神様。また、病気の治療法を伝えたり、温泉を発見したり、鳥獣被害の災いを祓うまじないを伝えたり、、、非常にご活躍になった神様。
島根県内にスクナヒコをお祀りした神社は129社ありますが、スクナヒコを主祭神としてお祀りする神社は意外と少なく、25社だと言われています。全国的に見ても大国主と一緒にお祀りされている事が多いようです。いいコンビだったということでしょうか?
背後には亀の尾の滝が流れています。
天穂日命社・荒神社・稲荷社
北島さん・千家さんのご先祖である天穂日命(あめのほひ)を祀っています。
いわゆるご先祖様をお祀りしているという感じです。
山王社
大山咋神(おおやまくいのかみ)
大物主神(おおものぬしのかみ)
北島さんの鬼門の方向を守護する神社。日吉神社などに代表される山王信仰のお社。大山咋とは山に杭を打つという意味に転じ、山を所有する神、山の守護神という位置づけになります。この神様は古事記によるとスサノオの孫という事になっています。
大物主とは大国主が国造りに迷った時に降臨した神様です。託宣通りに三輪山に祀ると、大国主の国造りは大成功したと伝えられています。
北島国造館へのアクセス
出雲大社境内からは歩いて1分。本殿をご参拝のあと、銅の鳥居から東に歩くとすぐです。
北島国造館にも駐車場がありますので、直接車でのアクセスも可能です。
まとめ
出雲大社の宮司さんは千家さんと北島さん。
北島国造館は神社ではなく、北島さんが運営する出雲教の神殿なのです。とはいえ、大国主命をお祀りする宗教法人に変わりはありませんので、安心してお参りください。
神社とは少し違う穏やかな空気が流れていますよ!
最後まで読んでくださってありがとうございます!
皆様に素敵なご縁が結ばれますように!
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