勝日高守神社|月山富田城跡に鎮座する戦勝祈願の神
安来市広瀬町、戦国時代に難攻不落と謳われた月山富田城跡に鎮座する神社。月山富田城は周囲を山河に守られ、最も難攻不落の要害城とか天空の城とも呼ばれていたそうです。標高183mに鎮座するこの神社に参拝するには、もうほぼ登山なのですが、頑張って参拝してきましたのでご報告します!
月山富田城跡とは
月山富田城は保元年間(1156~1159年)に平家の武将・藤原景清が築城したとされています。
京極家の分家である尼子氏は、南北朝時代の婆沙羅大名として有名な佐々木高氏の孫・高久が近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したことから始まっています。京極氏の出雲守護代として月山富田城に入場した高久の次男・持久。持久の孫・経久の代に幕府ともめて城を追い出されますが、奇襲作戦により富田城を奪還。戦国大名として名乗りを上げました。
経久が孫の晴久に家督を譲り、晴久の時代には実に山陰・山陽八か国を統治し隆盛を極めました。その統治範囲は出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後と広範囲に渡ったそうです。
しかしその晴久が急死。嫡男・義久は毛利の攻勢により富田城に籠城。兵糧攻めにあった末に降伏し、義久は毛利に降り、安芸で配流生活を送ることとなりました。これにより尼子氏は解散。一旦は戦国大名としての名を失います。
ところが尼子の忠臣であった山中鹿之助幸盛は尼子の再興を諦められず、京都の東福寺の僧侶となっていた尼子晴久を説得。そして晴久を擁立して尼子家再興を掲げ、毛利が占拠している月山富田城へ侵攻。しかし難攻不落で有名な月山富田城は落ちず、栄華を極めた時代の冨田城を奪還できません。その後尼子は織田信長の傘下に入り、播磨国の上月城を防衛する任において毛利に追い込まれ、勝久は切腹し鹿之助は捕虜となったのです。
毛利の捕虜となり移送されることとなった鹿之助は、その道中に斬殺され、ついに尼子再興の夢は潰えたのでした。月山富田城はその後、江戸期に堀尾忠晴が入城するものの、松江城にその拠点を移すと廃城となったそうです。
勝日高守神社のご祭神・ご由緒
大己貴命幸魂
神社の創建は欽明天皇三十一年(570年)に大国主命の分霊をお祀りしたことに始まったとされています。南北朝時代の延喜式や奈良時代の出雲国風土記にその存在が確認できます。
記紀によると出雲の国造りを行ったオオクニヌシは、自らの力不足に悩んでいると海上から光り輝くものが出現。「我を三輪山に祀れ」と託宣を受けたのでした。この光り輝くものの正体はオオクニヌシ自身の幸魂だったとされています。つまり、大きな事を成し遂げるにあたっては味方を増やすことも大事だが、まずは自分自身の能力を信じ、鼓舞する事の大事さを説いていると考えられます。
勝日高守神社は出雲国を治めようとした歴代の月山富田城主(尼子・毛利方の吉川・堀尾)から、城の鎮守社として崇敬されてきました。難攻不落の富田城の山頂にあることで「落ちない」、鹿之助ゆかりの神社であることから「粘り強い」などとされ、受験・試合に御利益があるとされています。
ここ月山富田城にあるこの勝日高守神社は奥宮とされ、飯梨川を挟んで対岸にある富田八幡宮境内には里宮勝日高守神社が存在しています。
勝日高守神社の境内
御本殿
社殿は春日造で、千木は男千木、方角は南東を向いています。晴久の代には岡山まで侵攻したこともあり、攻めていく方角を向いているのでしょうか。
参道・本丸への道
標高約190mの月山頂上にある本丸までは、大人の脚で約40分といったところです。
勝日高守神社へのアクセス
山陰道 安来ICから車で約15分。山の2合目くらいに無料駐車場があります。
ちなみに参拝を済ませた方は近くにある安来市歴史資料館にて御朱印をいただくことができます。勝日高守神社の御朱印のほか、山中鹿之助御朱印があり、これも通常版とゲーム戦国無双版の2種があります。萌えますね。
こんな銘菓も発見しました。鹿之助タオルや藍染めグッズなどもたくさんありましたので、歴史資料館にもぜひお立ち寄りくださいね。
まとめ
山陰を代表する武将・尼子と鹿之助。尼子再興のためなら「七難八苦を我に与えたまえ!」と叫んだ忠臣・鹿之助は、まさに七難八苦の末に夢叶わず散っていきました。一時は隆盛を極めた尼子の影を落とす月山富田城には、戦勝祈願・国土平定を願った神社が残るのみでした。本丸跡から望む景色は四方から攻めてくる軍勢が一目瞭然であり、難攻不落の城と謳われた意味を理解します。戦国好きな人なら一度は訪れてみてはいかがでしょうか。
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