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鹿島神社|国譲り後の宴会のお社で現在も続くおもてなしとは!?

国譲り神話に見える一説。

タケミカヅチ「出雲国を天照大神に譲りなさい」

オオクニヌシ「それならば立派な宮殿を建ててください」

両者の要望は叶い、無事に国譲りの交渉は成ったとされていますが、実はその後国譲りの成功を祝した宴会が開かれていたのです。

その宴会の場所というのが、今回ご紹介する鹿島神社なのです!

鹿島神社の御由緒

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国譲りを成功させた武御雷(タケミカヅチ)は、多芸志(たぎし)の小浜に建てられた宮殿に招待されたと言われ、その多芸志に比定される地が出雲にはあります。

出雲市大津町武志(たけし)

鹿島神社は古くからこの地に鎮座し、多芸志の小浜のお社に比定されています。

しかし鹿島神社は、現在では斐伊川のほとり。浜ではなく土手という感じです。

スサノオが降臨した船通山を水源とする斐伊川はこの鹿島神社の横を通過して宍道湖に注いでいます。

出雲平野(現在の斐川町)は太古の昔は水の中。斐伊川の運んでくる砂が堆積してできた土地なのです。

つまり、かつては鹿島神社も水の中だったわけですが、砂が堆積していくにつれてこの社殿が作られ、宍道湖が遠くなっていったということでしょう。。。

国譲り神話の時代にはどんな地形だったのか。大変興味深いものがあります。

鹿島神社の御祭神

武甕雷命(たけみかづち)

経津主命(ふつぬし)

天鳥船命(あめのとりふね)

櫛八玉命(くしやたま)

武甕雷と経津主は武の神として有名です。

国譲りの際に降臨した神ですが、古事記では武甕雷が、日本書紀では武甕雷と経津主の二柱が降臨しています。

また、櫛八玉は国譲り成立後に武甕雷をおもてなしした、料理の神様です。

天鳥船は武甕雷と共に降臨し、事代主の交渉にあたった神ですね。

鹿島神社の御由緒は古事記の国譲りの内容と完全に一致しています。

宴会を行った櫛八玉神とは!?

国譲り後の大事な宴会を準備したのは櫛八玉神(くしやたまのかみ)だとされています。この神は大国主命の専属料理人だと考えられます。

実は出雲大社の御由緒にも、国譲りが成立した後、日々の料理を櫛八玉神に任せていたとあります。それだけ信頼されていた料理人であれば、大事な大事なイベントの料理も任せられますね!

その櫛八玉神というのが、どれだけ真摯に料理に向き合っているのかが分かる一説があります。それはまさに国譲り後に開かれた宴会の準備。。

まず櫛八玉は鵜に変身して海底の埴(粘土)をとり、天の八十平瓫(平らな土器)を作りました。次に海藻を刈って 燧白・燧杵を作り、火を鑽り出します。

そして調理前に、火鑽りの詞(祝詞のようなもの)を奏上しました。

古事記には料理の前の儀式を慎重に行っている様子が記載されています。その段取りとは、食器を作り、調理のための火を熾す器具を作り、祝詞を奏上するという徹底ぶり。

もちろん料理もすごかったのでしょう。これだけの事をやってのける櫛八玉神とは!?

 

鹿島神社の本殿

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この神社の建築様式は出雲大社と同じ「大社造」です。

タケミカヅチを祀るのであれば神明造や流造になっていても不思議ではありません。しいて言えば拝殿がそれに近いものではありますが・・・

千木は出雲系の男千木になっています。これはむしろ鹿島神社を建てた櫛八玉神であり大国主命です。ですから家主の建築様式となっているのではないか?と予想します。

まとめ

国譲り後の大事な宴会が開かれた場所、多芸志の小浜に鎮座する鹿島神社。

そこには大国主命の専属料理人である櫛八玉神がいらっしゃいます。主祭神を建御雷とし、配神に櫛八玉神となっているところを見ると、相手を立てる意図がうかがい知れます。なんというおもてなしの心。

国ゆずりから2千年以上経った今でも、おもてなしは続いているのかもしれませんね。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

皆様に良いご縁が結ばれますように!

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