【東国三社】鹿島神宮のパワーは北を向いている!
東国三社参りの二社目に参拝したのは、武甕雷(たけみかづち)をお祀りする鹿島神宮。
出雲ではお馴染みの神様ですね。
大国主命に国譲りを迫った武神です。
鹿島神宮の御由緒
無事に国譲りが成立すると、天照大神の孫、瓊瓊杵尊が降臨し、後に天皇家の血筋へとつながっていきます。
その後、神武天皇が即位した際に建国に貢献した武甕雷をお祀りする社を建てた。
それが鹿島神宮なのだと御由緒は伝えています。
鹿島神宮の御本殿
画像引用:鹿島神宮公式サイト
神社自体は神武天皇の頃に創建とありますから、少なくとも2600年近くの歴史があることになります。
現在の社殿は徳川第2代将軍秀忠が寄進したものだそうです。
1619年の建築で400年の歴史があります。
しかし、実はその14年前には初代将軍家康が関ヶ原の戦いの勝利を感謝し、本殿を寄進しているのです。
秀忠公は先代が建てた御本殿をわずか14年で立て替えているのです。
武力が重要だった時代に、どれほどこの神様に信仰が篤かったかが伺えます。
家康公が建てた御本殿は移築され、奥宮となりました。
画像引用:鹿島神宮公式サイト
御本殿の裏には大きな御神木の杉があります。
鹿島神宮全体が杉林の中にあるのですが、この御神木はすごい迫力です。
鹿島神宮の奥宮
徳川家康公が寄進した本殿を、2代目秀忠公の時に移築し、奥宮としたのだそうです。
現在では武甕雷の荒御魂が祀られています。
この奥宮の裏手には巨大な杉の木がありますが、御本殿と違って触ることが出来ます。
たくさんの方が触れるからなのか、私にはいまいち気を感じることが出来ませんでした。。
皆さんはどのように感じるのでしょうか?
高房社
御本殿にお参りする前に、こちらの摂社にお参りするのが地元の方の習わしなのだとか。
このお社には建葉鎚命が祀られています。
実は大国主命が国譲りを宣言した後、その指示に従わない神がいたのです。
その従わない神を、武甕雷と経津主は岐神の道案内で成敗して回った。
最後まで抵抗した神は天香香背男(あめのかがせお)であった。
建葉鎚命がその難敵、天香香背男を成敗した事で日本平定は完成したのだとか。
神話が何を意味するのか謎ですが、武甕雷よりも先にお参りするべきとは、なんだか意味深ですよね?
御手洗(みたらし)
古くはここが神宮参道の起点。
この場所まで船で来ることが出来たと伝わっています。
昔は潔斎の池。
鹿島神宮にお参りする方はこの水で体を清めたのでしょう。
鳥居が映り込むくらい綺麗な水です。
大黒社
大国主命を祀っていますが、創建は明治以降とのこと。
6月30日には西瓜がお供えされるそうです。
何の暗示でしょうか!?
熱田社
ご祭神は須佐之男命と稲田姫。
熱田神宮のご祭神は三種の神器のひとつ「草薙剣」です。
「草薙剣」と言えば、須佐之男命が八岐大蛇を退治した時に発見したものです。
また一方で境内には「須賀社(すがのやしろ)」もあり、須佐之男命が祀られています。
しかし、一見須佐之男命を祀っていそうな「熊野社」には須佐之男命が祀られていないという。。
須佐之男命がどういう扱いなのか、神仏習合や古事記&日本書紀の成立の過程においても色々と影響を受けてきたのではないかと推察されます。
摂社と御本殿の位置関係
昔は御手洗池にて禊をしてから参拝したという伝承を踏まえると、現在の参道は本来の位置とは真逆であると考えられます。
境内に掲げられたこのマップには省略されていますが、御手洗池の真横にあるお社は大黒社、つまり大国主命です。
そして参道を御本殿の方に歩いていくと、次にたどり着くのは奥宮。
その次は熱田社、つまり須佐之男命です。
そして次に出会う事になるのは武葉槌命という事になります。
この並びは何を意味するのでしょうか?
御本殿の向き
多くの大和系神社はご神体が東を向いているのに対して、出雲大社のご神体は西を向いています。
そしてこの鹿島神宮はどこを向いているかと言えば、なんと北を向いているのです。
出雲大社が西向きな件はこちらに書きました
しかし、大国主命から国を譲りうけ、さらには建御名方命を諏訪に追い詰め、両社を監視するかのように東の果てに鎮座する鹿島神宮は、出雲大社・諏訪大社の方角、つまり西を向いていてもよさそうなものです。
なぜ北を向いているのか。
それは中々国として一つになれなかった東北地方以北を意識しているのではないでしょうか!?
つまり、鹿島神宮は東北地方への守護をしていると観念できます。
ここからは悪いつぶやきです。。
色んな説がありますので、雑談として読んでくださいね。
武家からの寄進が手厚かった鹿島神宮。
なぜ武家から愛されたのか。
平和になってくると武士たちはこぞって東北を目指しました。
成敗すべき敵がいると言って。
当時の武将はみんな「征夷大将軍になりたかった」のでしょう。
征夷大将軍とは当時未開の地であった東北を征伐するための大将軍。
大将軍とは「戦争中は天皇のいう事を無視できる」という特権を持っていたのです。
つまり「有事の時には特権が与えられる」という事を利用して、権力をほしいままにしていたのでしょう。
御本殿と奥宮に見られる、徳川家の手厚い寄進もこうした事への祈願が込められていたと考えられます。
こう考えると出雲大社の西向きな件とは違って、ファンタジー感がありません。。
やめやめ。
この辺りは武家文化との縁が深い神社の特徴なのかもしれませんね。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
皆様に良いご縁が結ばれますように!
昭和から平成初期の頃は本殿よりも奥の方はあまり手入れがされておらず御手洗池に続く道も木の根で凸凹な上に木漏れ日すら届かない常に日陰の場所がところどころ常にぬかるんでいて非常に歩き難く、本殿のエリアの奥には地元の者ですらめったに行かない場所でした。(正月以外は子供が鹿や鯉に餌をやりたい時に行ったくらい。しかも売店の餌が高いので自宅から持ち込んでる人が多数いたし実際「餌を買うのは観光客くらい」だった)
特に奥の宮から要石にかけては獣道と言っても良い状態で雑草や背の低い木のやシダ類が生い茂る道の行き止まりに柵で囲われた場所があり「要石」と雑に書かれた木の立て札が刺さっておりその柵の中に石が見えるような見えないような状態でした(柵の中にも雑草が生えていたから)
現在では本道も整備され奥の宮と要石の周辺は今では整備され、地元住民の散歩コースになっているくらい解剖されていますが、そのせいか昔よりもエネルギーが無くなってしまったように思います。
匿名様
コメントありがとうございます。鹿島神宮の昔の姿を教えていただき、ありがとうございます!観光地として整備されなければ、神社は朽ちていくということを引き換えに、大事なエネルギーも薄くなってしまうのですね。すごく共感します。僕も出雲大社も今の姿を見ると複雑な思いがします。