神原神社|卑弥呼の銅鏡を発見!?大国主命の財宝庫はここに!
邪馬台国ファンの皆様にお届けしたい!
歴史的に重要な発見がされた場所があります。それが今回ご紹介する神原神社と神原神社古墳です!
この地にはなんと出雲風土記の時代から「御宝が眠っている」事を匂わす記述があり、それを立証するかのように重要なものが発掘されました。
その重要なものとはなんと、卑弥呼が中国から受け取った銅鏡ではないかとされています!それでは詳しくご紹介していきましょう。
神原神社の御由緒
神原神社の創建は古く、出雲風土記にその記述が見えます。
出雲風土記に見える神原郷
古老が伝えて言うには、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)が、神御財(かみのみたから)を積み置かれたところである。それで神財郷(かんたからごう)というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているのである。
所造天下大神とは大国主命のこと。
つまりこれは、出雲風土記が編纂された733年にはすでに「言い間違い」が起きており、本来は「かんたから」と呼ぶ地名を「かんばら」と呼んでいたようです。
注目すべきはそこではなく、大国主命の御宝を積み上げていた土地とされている点でしょう!
大国主命の埋蔵金伝説でも発生してしまいそうな、ロマンあふれるお話じゃないですか!
神原神社古墳と三角縁神獣鏡
神社の隣には石室を再現した古墳があります。
神原神社は元々この古墳の上に鎮座しており、昭和47年(1972年)に北側に流れる赤川の新堤防工事を行う際に、神社が工事域にかかることになり南西50mに遷座したそうです。
その工事の際に、影響範囲を確かめるため古墳の発掘調査が行われました。すると・・・!
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)という銅鏡が発掘されたのです!
三角縁神獣鏡というのは国内でもたくさん出土があるのですが、神原神社古墳から出土したものは国内で2例しかない、異例中の異例。
「景初三年」(239年)と刻まれていたのです!
この元号は魏志倭人伝において邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の元号のこと!
なんとロマンのあるお話しでしょうか!邪馬台国はどこにあったのかという議論もおもしろいですが、卑弥呼の銅鏡が出雲の財宝庫から出てきたというのもおもしろい!!
きっと卑弥呼も出雲と何らかの関りがあったのでしょう!
まだまだあるお宝!加茂岩倉遺跡!
神原神社の近くにある加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)からは39個の銅鐸が発掘されました!
一か所の遺跡から発掘される例としては国内最多で、2008年に国宝に指定されました。
山を越えた反対側には銅剣358本が出土した神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)があります。こちらも国内最多の出土数。
神庭と神原という地名は、明らかに大王に縁のある地であったことを示しているのでしょう。
また、ここから発掘された銅鐸は大きい銅鐸の中に小さい銅鐸が入れ子状になっていた事も不思議!さらに、発掘された銅鐸の内いくつかは荒神谷遺跡から発掘された銅剣と同じ×印がつけられていたのです!
荒神谷遺跡についてはこちらの記事をご参照ください。
【荒神谷遺跡】考古学史を覆す発見!古代出雲王国は確かに存在した!
神原神社の境内
本殿
大國主神(おおくにぬしのかみ)
磐筒男命(いわつつのおのみこと)
磐筒女命(いわつつのめのみこと)
出雲風土記をもとに考察すると、大国主命を祀っている事はよく分かるのですが、磐筒の神を祀っている理由はよくわかりません。磐筒の神とはイザナギが、妻の死因となったカグツチを斬り伏せた際、飛び散った血が岩に付いた際に化身した神とされています。
この神は後に誕生するフツヌシの祖神であると日本書紀は語っています。フツヌシといえば国譲りを迫った神様。考えるほどによくわからない感じになりますね。
古代語で「ツツ」とは星の事を指すのですが、これも何か関係があるのでしょうか・・・?
社殿は大社造り、千木は男千木、御神紋は丸に交え鷹。
方角は南を向いています。
八幡宮
名称不明の摂社
稲荷社
神原神社へのアクセス
JR木次線の加茂中駅から車で5分。徒歩なら約23分です。
電車の本数も少ないため、マイカーかレンタカーでのご参拝をお勧めします。
まとめ
出雲風土記に記載された財宝庫である神原郷。その地中には本当に貴重な財宝が眠っていました。そして神原神社の近くには荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡という偉大な発見があった遺跡が密集しています。
まさしくここは出雲王朝があった場所なのでしょう。神話の時代からつながっている、壮大なストーリーを感じてみませんか?
最後まで読んでくださってありがとうございます!
皆様に素敵なご縁が結ばれますように!
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