忌部神社|出雲忌部の本拠地
松江市東忌部町に鎮座する忌部神社。地名にもなっている忌部とは、かつてヤマトの中央政権において祭祀を取り仕切っていた一族の呼称です。出雲忌部とも呼ばれた彼らの信仰とはどんなものだったのでしょうか。謎の多い忌部について、語ってみたいと思います。
忌部神社のご祭神・ご由緒
天太玉命
天児屋根命
配祀神
大穴牟遲神、事代主神、味耜高彦根神、天御梶姫神、素盞嗚神、國常立尊、國狹槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸之地尊、大苫邊尊、面足尊、惶根尊、伊弉册尊、正哉吾勝勝速日天忍穗耳命、天津彦火能瓊瓊杵命、彦火火出見命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合命、事解男神、速玉男神
忌部のルーツと出雲忌部
アマテラスの岩戸隠れの際に祭祀を取り仕切ったフトダマとコヤネ。彼らが行ったお祀りの形は現代の神社祭祀に続くものがほとんど。例えば榊・五色布・しめ縄・鏡や玉を飾ったり、祝詞を奏上したりと。平安初期まではフトダマの子孫である忌部氏が宮中祭祀の主要な部分を握り、祝詞といえば忌部氏のものが使われました。
コヤネの子孫は中臣氏を名乗り、平安時代には天皇との血縁関係を深めると形成を逆転。宮中祭祀は中臣氏が取り仕切るようになっていきます。忌部氏は中央での影響力を失ったものの、地方忌部たちは祭祀に重要な物品の製造を引き続き行ってきました。
忌部氏について詳しくはこちらの記事をご参照ください
特に出雲忌部は玉造という地名に見えるように、この辺りで採取される瑪瑙を使った勾玉づくりを取り仕切っていました。彼らが労働の後に使った温泉は現在でも温泉街として残っています。
忌部神社から北に行ったところにメノウ採掘場の花仙山があり、その山のふもとに労働の疲れを癒す玉造温泉があります。温泉街には玉作湯神社があり、ここのご祭神は出雲忌部の祖先神であるクシアカルダマ(タマノオヤ)です。花仙山と玉造温泉が仕事場と市街地だったとすると、忌部神社のある地域は裏山にあるベッドタウンといったところでしょうか。その安住地に忌部の祖先神であるフトダマを祀っているとは合点がいきます。
忌部神社のご由緒
明治までは大宮神社と称しフトダマを祀っていたが、日御碕神社からアマテラスを勧請、春日大社からコヤネを勧請したという。平安期に神戸内の二十二社を合祀し、二十二社総権現、総社大宮大明神と称し忌部神戸の総社となった。
明治期になると国の指導の下、周辺の神社(久多美神社・山智神社・素鵞神社)を合祀してを合祀し忌部神社と社名を改めた。昭和期には島根県神社庁特別神社に指定された。
忌部神社の境内
御本殿
社殿は大社造で千木は女千木、御神門は二重亀甲に齊の字、方角はやや北東を向いています。
齊の字はモノイミと読ませ、忌に通じるのでしょうか。
鷺神社
稲背脛命
稲荷神社・若宮神社
経津主命・武甕槌命・稲倉魂命
荒神社
お庭
忌部神社へのアクセス
JR玉造温泉駅から車で14分。坂下の一の鳥居から入ろうとすると車を停める場所がありません。車で神社を目指して団地の中に入っていくといきなり境内に入って駐車する事になります。小学生の通学路でもありますので、時間帯にはご注意ください。
まとめ
出雲忌部の玉職人たちが暮らした忌部町。そこには祖先神を祀る神社がありました。中央で華やかな仕事をしていた時代の忌部氏とは、どのような姿だったのでしょうか。大嘗祭の時に垣間見た阿波忌部のように、華々しさは無くても、今でもひっそりと職人仕事をして皇室と関わっている姿は古代から続く伝統を感じてしまいます。出雲忌部も同じように、美しい玉を作り上げては人々を唸らせていたのでしょうね。
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