船林神社|阿波から来たワナサヒコがたどり着いた船岡の地
出雲と阿波の縁を辿って雲南市大東町まで来ました。ここは舩林神社、通称 船岡さんと呼ばれています。和名佐神社に参拝した際に、ルーツがここだと知ったので参拝。阿波からやってきたワナサヒコさんはどんな神様だったのか・・・
船林神社の参道
まずは駐車場がない・・・
神社横のこの坂道を上がっていったら駐車場かと思ったら、全然違うしUターンできません。この道は参道途中に出るだけ。軽トラックくらいなら上がっていけそうです。
この坂道下の場所に駐車できそうでしたが、帰る時まで気が付きませんで・・・結局坂道に斜めになったまま停めたのでした。今考えると危ない・・・
あらためて参道を上がっていきます。
結構長い階段。
のどかな参道です。
何かしらの石碑が立っていた跡があります。何だったのでしょう?
のどかな田園風景が見渡せます。景色は綺麗ですが、参道にはガードレールなどが無く、滑落しそうで怖いです。
またも階段が出現。両脇をツツジが綺麗に彩っています。
相変わらず眺めがいいです。
ようやく社殿が見えてきます。ちょっとしたハイキングコースで気分が良い参拝となりました。
船林神社の御祭神
阿波枳閇委奈佐比古命
和奈佐とは徳島県南部の古い呼び名との謂れもあり、阿波(徳島県)から来た神との意味があります。ワナサヒコさんは、なぜ阿波からやってきたのでしょうか?
船林神社のご由緒
出雲風土記の大原郡にはこのように記されています。
出雲風土記 大原郡船岡山。阿波枳閇委奈佐比古命が曳いてきて据えられた船がこの山である。だから船岡という。
船林神社のある船岡山は、船をひっくり返したような形をしている事からこのような謂れになったと考えられます。
命はこの山を中心に粟を主とした農耕の道をお開きになったので後に命の遺徳を偲び奉り祖神として奉斎したのであるが、中世の頃一時衰退して社殿も消滅。山野となったことがあった。その頃麓に高島十助と言う者があり此の地を富となさんとして開墾した際、社の土台らしきものを発見し驚き、1806年に社殿を再建した。
神社ご由緒書
船林神社の境内
御本殿
社殿は春日造りで千木は男千木、神紋は二重亀甲に舩、方角は北を向いています。
山神神社
大山祇を祀っているのでしょうか?
社日碑・荒神
阿波と出雲の交流
ワナサヒコが船で阿波からやってきたことを考えると、最短で到着できる港は鳥ケ崎あたりにあったと考えられます。そうすると、船岡の地はワナサヒコが最初に到着した場所ではなく、和奈佐の村を経て最終的に住み着いた場所なのではないでしょうか?
船岡の地に腰を据えて土地を拓こうと考えたからこそ、農業に一生懸命打ち込んだのでしょう。鳥ケ崎周辺にはオオナモチが越の国へ旅立った神話も残っていますし、古くから他国との交易があった港と考えられます。勾玉を作っていた出雲忌部もこの港近くの玉作湯神社、忌部神社辺りに拠点を持っていた様ですし、阿波忌部との交流も当然あったと考えられます。阿波忌部と出雲忌部はどちらもフトダマに仕えた技術集団でした。
まとめ
阿波忌部と出雲忌部の交流の中、ワナサヒコがたどり着いた雲南市大東町、船岡の地。その社殿は阿波の方角ではなく、北の鳥ケ崎を向いている様でした。それはつまり船でやってきたことを暗示しているのでしょうか?
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