恵曇神社|須佐之男命の御子が腰掛けた巨石!?磐坂日子を追う!
出雲大社から北東へ37㎞。
出雲風土記に記述が見える、恵曇神社(えともじんじゃ)はあります。
パワースポット好きの方にはとっておきのスポット情報です!
しかし、非常に近くに恵曇神社と名乗る神社が2つあり、両方参拝したのですが、そこには意外な謎が潜んでいたのです。
それではミステリーハンターのご報告をお読みください笑
恵曇神社の御祭神
磐坂日子命
この神様は出雲風土記にしか登場しない神さまで、スサノオの御子とされています。出雲風土記に書かれている「スサノオの御子」というのはどれもこれも古事記・日本書紀に登場せず、謎が多いことでも有名ですが。。
特にこの磐坂日子命というのは下記のたった1文しか登場しないのです。
磐坂日子命が出雲の国を巡行なさったとき、この地に着いて仰った。
「ここは、地域が若々しく美しい土地である。土地の外見が画鞆(えとも)のようだな。わたしの宮はこの地に造ることとしよう。」
鞆とは弓矢を射る時に使う防具。弓を持つ左手に装着し、弦が揺れた時に怪我をしないように防護してくれるもの。この地形が鞆のようであったと。そういう事でしょう。
磐坂日子命はスサノオの由緒正しき家系に生まれ、人々からお祀りされるようなお方であった。宮殿を作る場所を自ら指し示し、この地に本拠を置いた。そのときこの恵曇と名付けられた地はまだ開拓が進んでおらず、国として若い状態であったということでしょう。
出雲風土記に見えるエトモ神社
出雲風土記の秋鹿郡の章には、「エトモ」と称する神社が三社あります。
恵杼毛社、恵曇海辺社、同海辺社
の三社なのですが、恵杼毛社のみが神祇官がいた神社と伝えています。
そして、現代に残っている神社でこの三社に比定されるされる神社は2社!それぞれご紹介していきましょう。
恵曇海辺神社
現代では恵曇神社と名乗るところが2社あり、こちらが恵曇港に鎮座するもう一つの恵曇神社。
恐らくここが風土記の「恵曇海辺神社」なのでしょう。御神紋は二重亀甲。ご本殿は南を向いています。
本殿前の拝殿にも、こちらの摂社と思しきお社にも「恵曇神社」と書かれていることから、恐らくこちらが「同海辺社」と記述されていた神社でしょう。
御由緒書がないので確証を得ていませんが、どちらの神社も磐坂日子命をお祀りしていると思われます。
海辺社の横を上がって行くと、このような摂社が。。御祭神もお社の名前も見えません。この摂社からは恵曇港を見渡すことができます。
恵曇神社
鹿島町役場の横を入っていった所に鎮座する恵曇神社。海辺神社とは一変して、内陸部にお祀りされています。
このご本殿の右手側を入って行くと。。
磐座があるのです。恵曇神社のご由緒によると、この3つの巨石は「座王さん」と呼ばれ、御祭神の磐坂日子命が国巡りの際に腰掛けられたと伝えられています。
立っているだけで自然と元気が満ちてくるような、温かい気を感じます。地元の方に大切にお祭りされているのでしょう。古代祭祀の場が現在の神社という祭祀の形と共存しているとは、非常に貴重な場所です。
ここで出雲風土記を思い出してください。磐坂日子命が「宮を作る」という表現をしています。
宮とは「御屋」であり、つまり建物を意味します。これは出雲風土記が編纂された年代(733年頃とされる)には、既に神社のような社殿が作られ、お祀りされていた事を暗示しています。
社殿ができるまでの間、磐座に腰掛けておられたのでしょうか?神社神道の成立過程を考察する上で、大変貴重な記述です。
磐坂日子命の国巡りとは何か?
スサノオの御子である磐坂日子命。
出雲風土記にはスサノオの御子として五柱の神様を挙げています。
- 青旗佐久佐日子命(アオハタサクサヒコノミコト)
- 都留伎日子命(ツルギヒコノミコト)
- 衡鉾等乎而留比古命(ツキホコトオテルヒコノミコト)
- 磐坂日子命(イワサカヒコノミコト)
- 国忍別命(クニオシワケノミコト)
- 和可須世理比売命(ワカスセリヒメノミコト)
- 八野若比売命(ヤヌノワカヒメノミコト)
五男二女の7人兄弟として描かれていますが、国巡りの旅をしているのは磐坂日子命だけではなく、衡鉾等乎而留比古命も国巡りの旅をしたと書かれています。
国巡りとは国土開拓と解釈されている文献が多いようです。スサノオがヤマタノオロチを退治して平定した出雲国ですが、まだまだ国は未開拓の場所が多かったということでしょうか。
父の意思を継いで、各地を平定していたのですね。
磐坂日子命の足取りを追って
実はこの恵曇神社の他にも磐坂日子命を祀る神社があるのですが、それは随分と離れた土地になります。八雲の地にある磐坂神社です。
その足取りを追ってみると、恵曇港から上陸し、内陸部の磐座に腰掛け。。。磐坂神社へと歩を進めると、その先には熊野大社!つまりスサノオを御祭神とする出雲一宮ですね。
ちなみにこの熊野大社の裏山である八雲山を越えると、そこには須我神社。つまり磐坂日子命の両親が初めて暮らした新居です。
これは何を意味するのでしょうか?
父君の元を出発した磐坂日子命は国を巡り、辿り着いた場所が日本海岸の終点地、恵曇であった。何のために恵曇を目指したのか?
この謎は次回、磐坂神社へとお参りすれば明らかになるかもしれません。磐坂日子命の足取りを追う旅は続きます!
最後まで読んでくださってありがとうございます!皆様に良いご縁が結ばれますように!
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