塩冶神社|地名由来神エンヤビコと長い参道
出雲風土記に「ヤムヤのヤシロ」と記載される塩冶神社。現在の読み方ではエンヤ、中世の読み方はヤムヤ。そこにどんな謂れがあるのか気になっていたのですが、天気も良かったので神社参拝と合わせて塩冶の町並みを探索してきましたので、やっと記事にする気になりました(笑)
この神社にはオオクニヌシにゆかりのある神様が祀られていますよ。早速ご紹介していきましょう!
塩冶神社の御祭神
塩冶毘古命
塩冶毘賈命
配祀神
塩冶毘古麻由彌命・焼太刀大穂日子命・誉田別命・事代主命・塩冶判官高貞命
神産魂御子牛日命(神国島根に記載、神社ご由緒書きには見えず)
主祭神のエンヤビコはオオクニヌシの孫であり、父神はアジスキタカヒコだと出雲風土記には記載されています。そしてエンヤビメはエンヤビコの妻神とされています。配祀神にいるヤキタチノカミとはエンヤビコの息子。塩冶比古麻由弥能命とはどうやらエンヤビコの荒魂のようである。
塩冶神社の御由緒
創立年代は定かではないが、少なくとも延喜式神名帳や出雲風土記にその名前が見えることから、1300年程度の歴史があることが伺えます。古名では夜牟夜または止屋と表記され、出雲風土記においてはヤムヤビコがいらっしゃるのでヤムヤと呼ぶと記載されています。
別称を塩冶八幡、馬場之宮と呼び、八幡神を祀って馬が寄進されたという歴史を想像させる。八幡神の合祀は後一条天皇の長元2年、時の守護職 塩冶頼泰が行ったとされています。塩冶頼泰は塩冶氏の祖であり、鎌倉幕府5代執権 北条時頼が当主であった時代に元服。宇田源氏の名門 佐々木氏の支流としてお家が反映した。南北朝時代に名をはせた塩冶高貞は後醍醐天皇の挙兵に協力、後に足利尊氏方に転じるなど活躍し、江戸時代の人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」に描かれるほど有名であった。
また、延喜式には塩冶比古麻由弥能神社という神社名が記載されていますが、現存していない事から察するに、現塩冶神社に合祀されたものと考えられます。荒魂を別に祀るとは、崇敬篤い神様だったことが伺えます。
塩冶神社の境内
御本殿
本殿は流造で千木は男千木、ご神紋は五三の桐、方角は西を向いています。
本殿が向いている西の方角を見渡すとー
参道の先には真っすぐに伸びた道路。
道の脇にある灯篭は「ここが元宮」という目印の様です。さらに道路を進んでいくと
鳥居が!これは二の鳥居で、さらに先があるのです。一の鳥居までを歩いてみるとその長さはなんと600m超え!
塩冶神社が現在地に遷座したのは江戸時代、松平宜澄の時とされていますが、それでも元宮の参道は400mあったという事になります。どれだけ大きい境内を持っていたのか分かりますね。少し西に行くとエンヤビコの父神、アジスキタカヒコが祀られる阿利神社があります。
稲荷神社
御祭神
倉稲魂命
荒神社
御祭神
天満宮
御祭神
菅原道真
社日碑
鳥居とお社が付いた社日碑は初めて見ました!
招魂社?
お社の脇に慰霊碑があるので、戦争で亡くなった御霊のための招魂社かな?と思われます。
塩冶神社へのアクセス
JR出雲市駅から徒歩18分。車ですと約5分で到着します。神社前には3台分の駐車スペースがあります。一の鳥居・二の鳥居や元宮跡を見学したい方は駅に自動車を停めて歩いて見るのも楽しいです。一の谷公園に停めて歩いてくるのも、それほど距離が変わりませんが坂道が大変です。
まとめ
塩冶町の地名由来となった神様「エンヤビコ」と、産土神を大事に祀り中世に名を馳せた塩冶氏。現在では住宅地の合間を縫うように参道の名残が見えました。かつてこの一帯はオオクニヌシの息子、そして孫へと代々引き継がれ統治されてきたのでしょう。鳥居の下を自動車が走っていくのを見ると、その時代にはその時代の優先順位があり、町の歴史を知るには千年前の地図を引っ張り出さねばならないというのは寂しくも感じました。とはいえ塩冶の町は落ち着きがあって、それでいて住宅街として発展している所を見るに、産土神を中心に町が続いていると喜ばしくもあります。
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