御湯神社|ヤガミヒメには9人の子供が!?
鳥取県岩美町に鎮座する御湯神社。海岸線を走っていた山陰道(国道9号線)も、この岩美町辺りから山間を走っていき、果ては京都に至ります。この辺りには岩井温泉があり、兵庫県との県境にあっては旅の要所だったのでしょう。
御湯神社の御祭神
御井神
大己貴命
八上姫命
猿田彦命
オオナムチとはオオクニヌシの別名とされ、古事記ではヤガミヒメとの間にミイノカミが生まれたとあります。しかしオオナムチには正妻スセリヒメがあり、その存在を知ったヤガミヒメは出雲の直江の地に御子ミイノカミを残し、因幡国に帰ったとされます。
しかしこの御湯神社に伝わる伝承ではオオクニヌシとヤガミヒメの間には九柱の御子が生まれたとし、スセリヒメに遠慮するどころか大家族を作ったと伝えられています!
さらに九柱の御子たちの中でも第一子として誕生したミイノカミは岩井温泉で産湯を浸かったったとのこと。これは斐川の御井神社の伝承とぶつかってしまい、ヤガミヒメはオオクニヌシに会うため出雲にやってきて、その途中でミイノカミが産まれたという古事記の伝説さえ覆す内容です。。
ヤガミヒメの生家は鳥取県河原町の売沼神社とされ、彼女の御陵と噂される古墳もあります。鳥取市内にはヤガミヒメ由来の神話が点在し、古事記では語られなかった裏話が沢山あるのです。日南町あたりにはヤガミヒメとオオクニヌシは駆け落ちしていた!とかいう神話もあります。。
御湯神社のご由緒
創建は平安初期の弘仁二年(811)とされ、約1200年の歴史があります。神社の創建は温泉の発見と関連があり、平安時代に京都からやってきた藤原冬久に由来しているという。
冬久はひどい皮膚病を患っており医者も匙を投げたため、人目を避けて暮らしたいと願い因幡国にやってきた。岩井の地に着くと一人の女にすれ違う。冬久が宿を訪ねると、突然その女は冬久の顔をめがけて唾を吐いた。あまりの侮辱に震える冬久だったが、女は冬久の手を取って近くの木陰に連れて行きました。そして木の枝で近くの岩をつつくと不思議なことにそこから温泉が湧き出てきました。
岩井温泉の伝説
そしてやっと女が口を開きました「あなたにかけた唾はこのお湯と同じもの。さあこのお湯で全身を洗ってごらんなさい」と。冬久がその通りにすると、肌は美しさを取り戻したのでした。それからというもの冬久は岩井の地に住み、あちこち温泉を掘って人々を助けたのでした。
その後、冬久があの時の女の姿を木に刻むと、出来上がったその姿は薬師如来にそっくりだったといいます。その像は岩井にある東源寺の本尊としてお祀りされています。
この藤原冬久は温泉の御利益に感謝し、東源寺を創建したとも温泉の神を称えて御湯神社を創建したとも言われていますが、神社のご由緒書きなどはなく真偽のほどは定かでありません。
江戸時代には伊勢宮と呼ばれ、この時代の主祭神はサルタヒコだったようです。よく考えるとミイノカミは井戸の神様であって、温泉とは近いようで遠い存在。どっちかというとヤガミヒメの方が温泉の神としては適切であり、出雲にある湯の川温泉では「オオクニヌシに会いに来たヤガミヒメは疲れ果てて美貌が失われた。湯の川温泉に浸かると元の美貌を取り戻した」とあるくらいです。
ミユジンジャという呼び名も、ミイジンジャが訛って伝わったものと考えると、このお社は湧き水か井戸をお祀りした場所かもしれません。岩井温泉は川を挟んで対岸の地が中心街ですし。
御湯神社の境内
御本殿
社殿は流造で千木は男千木、御神紋は丸に三つ巴、方角は南西の方角を向いています。南西の方角には冬久が薬師如来を納めたという東源寺!?なるほど寄せてきましたね。
藤ケ森神社
別雷神
稲荷神社
宇賀魂神
能登守平教経卿矢研石
平教経の矢研ぎ石とある。平教経とは弓矢の名手として有名で、木曽義仲を撃退、壇之浦では義経をあと一歩まで追い詰め、最期は敵兵3名を抱えたまま壇之浦に散ったとされています。その彼が、矢を研いだ!?なぜここで!?謎の石です。
御湯神社へのアクセス
JRも通っていない地域のため自動車で目指すのが最良と言えます。山陰道岩美ICを降りると約7分でたどり着けます。京都宇治からやってきた藤原冬久は「宇治長者」とも呼ばれていたらしく、周辺には宇治という地名や長者とつく名前の施設を見かけます。
まとめ
ヤガミヒメの生家が近いだけあって、鳥取市は全体的にヤガミヒメ推しなイメージがあります。この御湯神社も元々は温泉の御利益に感謝したところから始まって、時代を経るごとに民話が足されていったのでしょうか。個人的にはヤガミヒメが子供を置いて帰った話よりも、大家族を作って幸せそうに温泉に浸かっているお話の方が好きですけどね!
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