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倭文神社|シタテルヒメ終焉の地!?伯耆国一ノ宮の伝承とは?

鳥取県湯梨浜町。現在の地名は羽合町・東郷町・泊村という3つが合併したものですが、さらに昔は伯耆国という地名でした。伯耆といえば出雲富士として有名な伯耆大山が有名です。この倭文神社は伯耆国一ノ宮と伝えられ、まさに大山の近くにあった一勢力を表すものと思われます。

出雲国一ノ宮といえば出雲大社と熊野大社ですが、ここ倭文神社の御祭神はオオクニヌシの娘、シタテルヒメだと伝えられています。そしてそこにはいろいろと不思議な伝承があるのです。

 

倭文神社の御祭神

建葉槌命たけはづちのみこと

倭文織の神。日本書紀に登場する神。国譲り後にまだ従わない神様を、タケミカヅチとフツヌシが成敗して回った。天香香背男あめのかがせお(別名:星香香背男ほしのかがせお)はどうやっても従わなかったので、倭文神のタケハヅチを派遣し、服従させた。

お名前から察するに星の輝きを表す美しい名前のカガセオを、武神の称号である「タケ」を冠するタケハヅチが成敗した。なぜ織物の神様が星の神様を成敗できるのか・・・?もう織姫と彦星しか浮かんでこない・・・

 

下照姫命したてるひめのみこと

オオクニヌシの娘。光輝く美貌から下々の世界を照らすほど。ゆえに下照姫というお名前になったのだと言います。

 

その他五柱の神

事代主命ことしろぬしのみこと建御名方命たけみなかたのみこと少彦名命すくなひこなのみこと

天稚彦命あめのわかひこのみこと味耜高彦命あじすきたかひこのみこと

 

 

 

倭文神社のご由緒

 

シタテルヒメが出雲から船で到着した!?

創建年代は不詳だが、広く安産の神として信仰されている。オオクニヌシの娘であるシタテルヒメが出雲から当地に移住され、安産の普及に尽力された。境内には安産信仰の名残と言える祠や遺跡が点在している。

出雲国を出立したシタテルヒメは、羽合町宇野と浜村宇谷との境にあたる「仮屋ヶ崎」の海岸に着船された。ご休憩の後、住まいを倭文神社の地に移されたと伝えられています。

 

シタテルヒメの陵墓がある!?

境内には古くからシタテルヒメの陵墓であると言い伝えられていた場所があります。なんと発掘が行われたそうで、陵墓とされる場所からはたくさんの経典が出土し、経塚だったと判定された。しかしこれは平安時代後期のもので、それ以前の時代にどういう信仰があった場所なのかは明らかでない。

 

倭文神が主神とされる謎

倭文神社の境内には安産信仰の物しか見えないが、神社のご由緒書きにはこうある。

創立当時、統治法の主産業が倭文の織物であったので、倭文部の祖神タケハヅチに当地と関係の深いシタテルヒメを加えて祭神とした。その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産信仰として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。

この辺りには織物を生業とする人々が住んでいたのですね。しかしそれが主産業ではなくなっていったと。高級な織物というのは都に徴収される品物であったため、地元の人々が着るものではありません。こうした倭文部の人々は河川・海・湖沼が近い高台に拠を置き、山陰地方と東海地方に多いのだそうです。どんな一族だったのか・・・

記紀とは違う古い伝承では、タケハヅチをアメノワカヒコの別名とするものもあります。そうなるとシタテルヒメの旦那さんということで色々合点がいきます。真実はどうなんでしょうね。

 

倭文神社の境内

御本殿

社殿は流造だが、鰹木は3本、千木は男千木という出雲系。御神紋は二重亀甲に三つ菱。

方角は南を向いています。

 

安産岩

参道に鎮座する巨石。

昔難産に苦しむ婦人が願をかけ、満願の日に下照姫命が姿を現され、参詣の帰途この安産岩で簡単に出産し、以来安産岩と称するようになったと伝う

出産前の婦人がお百度参りにでも来たのかという感じのご由緒ですね。

 

夫婦岩

安産岩の近くにある巨石。

 

謎の巨石

境内にある謎の巨石。ご由緒などは書かれていません。

 

 

シタテルヒメの陵墓(経塚きょうづか)

鳥居から拝殿まで歩く途中、脇道が手招きしてる。

一応立て看板はあるけど、気づかない人もいるかもしれません。それなりに道も険しく、間違ってもヒールやサンダルで上がってはいけませんよ。

 

結界のように木が立っている。ここは直感的にお祀りを行っていた場所だと感じます。

そうか。シタテルヒメはここにいらっしゃるのかとしみじみ。

 

掘り返された跡が残っています。

たくさんの経典が出土し、経典が入れられていた壺は国宝になったのだとか。

 

どうしてシタテルヒメはここへ移り住んだのでしょうか。夫のアメノワカヒコが亡くなったから?国譲り後に居場所が無くなったから?それに答えるような伝承が付近にありました。

 

 

倭文神社周辺のシタテルヒメ伝承

宮戸弁天

倭文神社の七弁天と称して、付近の水辺七か所に弁天さんが祀られていたそうです。現在残っているのはこの宮戸弁天だけ。もともとは小島だったが、現在は埋め立てられて陸続きになっています。

シタテルヒメが釣りを楽しまれたところとして伝えられる。また、シタテルヒメの使いの白ヘビが、ここから龍湯島(東郷町役場裏の辺りまでの間を往復したとの伝説がある。

ご祭神は弁財天べんざいてんという事でしょうか?それとも弁財天と習合した市杵島姫命いちきしまひめのみことでしょうか?白ヘビ伝説があるということは、菊理媛神くくりひめのかみでしょうか?

宮戸弁天の祠は、まっすぐ倭文神社の方角を向いていました。失われてしまった他の6つの弁天様も倭文神社の方角を向いていたのかもしれませんね。

白ヘビが使いとして向かった先は、龍湯島として伝えられていますが、湯梨浜町役場東郷町支所の辺りを現在でも龍島という大字で呼んでいます。

 

出雲山

倭文神社から西へ、東郷湖を望む高台にある出雲山展望駐車場。

 

シタテルヒメは倭文神社の地に住まいを定め、住民に安産の指導をされたが、故郷恋しさのあまり、日暮れ時になるとふさぎ込んだり涙したりされる日もあったという。そんな時、少しでも出雲に近づこうとの思いからか、この高台まで来ると、遠く出雲国や出雲富士の方向に向かって何事か小声でつぶやかれていた。この姿を見た人々はシタテルヒメをおいたわしく思い、いつしかこの高台を出雲山と呼ぶようになったという。

 

シタテルヒメのこの仕草は・・・帰りたくても帰れない事を暗示しているようです。悲しみに暮れているのは夫との別離か、出雲国が奪われたことへの望郷か。何を呟いておられたのか、胸が締め付けられる言い伝えです。

 

展望台に立ってみると東郷湖を一望できます。その向こうには出雲富士と謳われた大山、その向こうに意宇国おうのくに神名火山かんなびやまである茶臼山ちゃうすやまが見えます。シタテルヒメはここから出雲のカンナビを遥拝しておられたのでしょうか?美しい景色だけに、涙を誘ったのかもしれませんね。

 

倭文神社の周辺マップ

JR松崎駅からは車で約8分。公共交通機関で目指すことは難しく、タクシーかレンタカーをご利用ください。駐車場はあります。

 

 

まとめ

シタテルヒメ終焉の地として、少し悲しい伝説が残る場所。そういえば同じ日本海側で、西に50km行った所にある壹宮神社には「シタテルヒメが夫のアメノワカヒコと暮らした。夫の死後、シタテルヒメは倭文神社の地へ移住した。」という伝説がありました。出雲から東へ、東へと移住を繰り返したシタテルヒメは何を求めてこの地を選んだのでしょうか?謎が多く、興味深い神様ですね。

 

壹宮神社|天孫降臨を覆す伝承とシタテルヒメの住居跡!?

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